市川さんのコメントに対して

えーっと。するすると逃げたら逃げたで痛手を被りそうな感じですね。


とりあえずどうも誘導的というか、なんというか。そんな感じを受けましたけど。


以下返答です。
最近バラックとか廃墟だとか、そんなものが流行してますし
まあ先日挙げたカフェもそんなカテゴライズの仕方でもいいと思ってるんですが
あれの魅力って、つまりアーキテクチャーでは少なくとも到達できないって
ことだと思います。絶対に自由気ままな存在としての人間と時間。
それがなければダメなんですよね。でもそれは根本的に
アーキテクチャーには含まれない項目ですよね。
模倣は許されませんから、まあ無い物ねだり的な感じがある。
じゃあああいうのが正しい姿かと言えば、建築を作らない姿勢で見れば
正しいことだと思います。でも建築を作ると言う姿勢の中から見れば
あまりよろしくはない。社会の枠組みに埋没してその中で自己満足するんなら
それは建て売り住宅とかそういうのと一緒ですから。それを良しとしてしまえば
建築は本当の意味で単なるうわべの「デザイン」になってしまうし
それはポストモダンという流行を通じて手痛い失敗を感じ取った訳ですからね。
でも個々の建物を壊す壊さないの価値を決めるのはそれほど簡単じゃない。
というより現実的に考える時、たぶん個人のレベルでは不可能です。
それは現実との折り合いの問題であって、
なぜなら建築は社会の枠組みの外にいることはできないから。


東京駅の問題。まあ最近話題でしたよね。個人的な見解として
あれはやっぱり残すべきです。その時代にしか存在し得ないものを
簡単に壊すと言う精神は僕は持っていないし
壊して次にでてくる将来のイメージも絶望的だから。
たぶんガラスの透明感のある駅になるんでしょう。
そしてそのままに透明でスカスカな未来しか見えない。
経済を敵に回して建築家が戦ったって無理ですね。
さっきも言いましたけどアーキテクチャーには時間が含まれない。
安藤忠雄も表参道の同潤会アパートでわけのわからないことを
しちゃうくらいです。時間という価値は必要です。それが抜け落ちてるから
今の日本は訳の分からないことになっている訳です。


まあ正直、ここはある程度匿名的に
それでいて適度に他人の目を気にしちゃうと言う
微妙なラインに存在するからここでいろいろと書いているんですけれど
これがすべてではないし、とくに人からどう思われるとかを
気にして書いている訳でもないです。


かたちにするという意味では建築の学生である以上
建築の図面としてかたちにしてます。過度の言語化は非建築になる危険がある。
なぜなら抽象表現としての言語は、それ故に自由であって
束縛されない。ある種の理想を表現できるから。
ともあれその設計したものをここで公開する気は
匿名的で居たいと言う理由で無理です。


雑ですがこんな感じです。