何事も勉強

ここ2週間で読んだ本。
東浩紀動物化するポストモダン オタクから見た日本社会》
森川嘉一郎趣都の誕生 萌える都市アキハバラ
永江朗《平らな時代 おたくな日本のスーパーフラット
斎藤環心理学化する社会 なぜ、トラウマと癒しが求められるのか》
斎藤環戦闘美少女の精神分析


ネット歴は長いくせに、ネットショッピングはどうも苦手。今回初めてamazonの世話になったんだけどamazonの便利さは関連のある本とかそういう情報がポコポコと自動的に入ってくるところ。これだけに依存するのはやっぱ問題あるのかもしれないけれど、まあ便利。でもやっぱりものは自分の手に取って、財布の中身と相談したりするところに面白みがあるっていうか。すごい保守的で古典的で、馬鹿なんですよね、僕は。


社会学、心理学系の本を読んでいると、つくづく建築論っていうのが外から輸入されたものに過ぎないんだなあと実感。五十嵐太郎しかり。飯島洋一しかり。ちなみに飯島洋一は論理の甘さがやたらと目につくので嫌い。ユニット派批判とか。


バリー・グラスナー《アメリカは恐怖に踊る》は、僕が日頃メディアに抱く不信感みたいなものそのものなのですけど、アメリカでもそうなんだと。「少年犯罪が最近増加している」という実感と、実際のギャップ。これはどうも実際にはアメリカも日本も減少傾向にあるようです。統計的に。だけど、一部(これを一部と言い切って切り捨てられないものだということは十分わかった上で)の異常な犯罪と、それに過剰反応していくマスコミ、そしてそれを心のどこかで面白がってしまっている視聴者のせいで、やたらとクローズアップされてしまう。物語を求めてしまっている。アメリカでは、銃の問題ではなくアニメやゲームに原因をなすり付けようとするし、日本では加害者やその家族なんかを必要以上に調べまくって報道して問題をすり替えてしまう。なんのための報道か。これをしっかり意識しないと、情報化が進む中でやっぱり危険なことだと思う。僕らには、被害者や被害者の家族の気持ちなんてものは、決して理解できやしない。擬似的にそういう気分になって、喜怒哀楽したとしても実際には何の痛みもないわけで、これは映画を見ることとじつはほとんど変わらない。映画がフィクションであるという前提のもとに存在するんなら、事件は自分は赤の他人であるっていう前提のもとに存在する。物語を消費するだけ。なんか不毛だ。


とはいえ、大衆ってそんなものなんだろうね。偉い人がどんなに高次な議論をしていたとしても、大部分の大衆がそういう高次の議論よりチープなゴシップのほうを選ぶと言うのなら、報道もそれに合わせるしかないんだから。教育教育ってよくいうけど、本当の教育ってゴシップに群がることじゃないだろうになあ。