内藤廣

内藤廣はどちらかといえば自信については語らない方が良い建築家だと思う。吉阪隆正にする講演会でドローイングは悪い意味で上手に描こうとするときほど他人の理解を積極的に求めている結果であってそういう傾向はある意味ではよろしくないというようなことを自分で言っていたのだけれど、それは文章にも当てはまるのではあるまいか。彼の文章自体は非常に説得力のあるものなんだけど自分の作品にかんしての言説は、作品の良さを半減しているように思う。《素形》という単語などなど。いかにも取ってつけたようにしか聞こえない。彼の表現そのものは、和風を明らかに意識している部分があって、それは建物の合理性云々からくるものであるのと同時に、やっぱり何らかの好みからきていることは明らかだから。


ともあれ作品そのものはなかなか良い。実際に観たのは海の博物館、鳥羽ミュージアム牧野富太郎博物館の3作品だけれど、その中では牧野富太郎博物館が一番好きだ。ポストモダン以降、日本の建築家は大きく2つの方向を取った。少数派だけれど安藤忠雄などのカリスマ性を売りにした人たちと、ユニット派に代表される作家性の消失を目指した人たち。後者は、具体的には構造の合理性とか、住民参加のプログラムを用いた設計手法、ガラスを用いた透明な建築などに分かれる。


内藤廣はこういう要素に加えて、単純な構成(それでも建築家的なサービス精神は当然のように持ち合わせているとしても)と瓦を用いたりと和的なるものを組み合わせて成功している。ある意味では退屈で、飽きてしまうかもしれない危険をはらむ、まさしくつまらない建築。でもそれは突出することがないから、逆にすごく風景になじんでいる。安藤忠雄にはできないことだと思う。牧野富太郎博物館では単純で明快な形態をあえて与えないことで木々の中にとけ込んで、それがいい具合にお互いを刺激し合っているし、コの字の屋根から見える青い空はすごく美しかった。


あと屋根の形態の重要性は、特に俯瞰したときに顕著になると感じた。五十嵐太郎の指摘した、飛行機によってもたらされた第5の視点。これはあきらかにフラットルーフでは解決は難しい。フラットルーフは明らかに人の視点からの提案じゃないか。たいていフラットルーフの建物は、上から見るとすごく汚い。