deep love

あれはつまり不気味な形で出現した現実のフェイクである。僕はあれをとてもじゃないけれど、全部読めないし、気味の悪さしか感じなかった。感動を受けた人たちには悪いのだけれど。どうしようもなく気味が悪かった。読みやすいように、理解しやすいようにあえて平易な表現をとったと作者はいうわけだけれど、それには、たぶん凄く危険な側面を持ってるように思う。理解しやすい形で現実を加工し、提示していくやり方はそこに中間的なる思考、つまり自分自身で考えるという事を排除している事につながるのだから。


現在のマスメディアのほとんどがそうなんだけれど、報道はどんどん単純な物語化していっている。個人と情報との関係。本来、情報というものは情報でしかない。視覚、聴覚、触覚、嗅覚から脳に伝えられるまでの極めて単純な電気的な伝達であり、そこに何らかの意志が入る事はないのである。脳に届く事で初めて認識され、言語化され、判断される。個人が認識した情報を、他人に伝えるときに何らかの形でそれは抽象化の過程を免れないし、それは絶対に物語化されざるを得ない。それはしょうがない。でもマスメディアはそれを極力、情報として伝えなくてはいけないのではないか。安易な、認識されやすい物語として伝えられるということは、なんらかの意思がはいるってことは、ある種の洗脳である。それも現在なんらかの知的な媒体を通じてではなくそれが物語化されることが多分に行われている。わかりやすい言い方でいえば視聴率競争のために、報道はどんどん安易な物語になっている。神戸の児童殺傷事件。オウム真理教。少年犯罪。援助交際。ここ数年メディアを騒がせてきた凶悪なニュースから我々は何かを学べたのだろうか。視聴者側、報道側を正義、テレビの中を悪という簡単な二元論で伝えられたそれらを見て何かが変わったのだろうか。テレビに映るのはシンプルに、我々が作り上げてきた社会そのものなのである。絶対に無関係ではいられない。テレビの中での出来事を、もしも悪だというのなら、その悪はまぎれもなく我々の一部だ。でも実際はそれを感じる人は少ないし、それを望んでいる訳でもない。我々のほとんどはね。面倒くさいわけだから。結果、安易な物語は、容易に我々を傍観者化するのである。


deep loveは、ある調査では「子どもたちが親たちに読んでもらいたい本のNo.1」になっているという。この小説の支持層の詳細な人生は全く分からないけれど、今の若者を大人がちゃんと見ていないってことを読者が感じるからこそ、こういうアンケート結果になったようになったわけだ。割に多くの大人は今の若者像を、おそらくリアルにではなく、メディアのなかの安易な物語のなかの若者像で認識している。そういう単純な若者像に不満を感じた若者が、同じように単純な若者像を大人に認識してほしいと思うっていうのはどうなんだろう。結局システムとしては同じなわけだから。そして同じシステムの中でどんどん単純化を続けるしかない、堂々巡りをしていくことだろう。ぐるぐるぐるぐると。そこに知的な上昇はありえなくて、下降しか見込めない。


それでさらに悪いのはdeep loveというタイトルに象徴されるように、すごく単純な形の愛というもので世界を包括しようとするところである。作者自身も言っているように、愛なのである。面倒くさい事があればすぐに愛。べつに悪い事ではない。愛は素晴らしいものです。すべての基本だと思います。でも愛ですべてが救えるなんて言うのは所詮欺瞞なのだ。歴史が示している。隣人愛すら説いたキリスト教が最も人を殺したんだから。deep loveの言う愛で、世界を閉じてしまうとき、その内向的な愛の行方はどこにあるんだろう。おおむねそういう一元的な閉じた世界もまた、それが向かうのは混沌しかないように思えるのだけれど。


この社会をなんらかの形で息苦しく思う人の数はかなりの数だ。オウム真理教、麻原は、その息苦しい世界に疲れた人たちに対して、わかりやすい世界観を提示したことで彼らを取り込む事ができた。この世界観を僕らはすごく陳腐に感じた訳だ。有名な大学を出た頭のいい人たちがどうしてこんな世界観を安易に受け入れたのかと疑問に思ったはずだ。あの、ある種の不気味さに嫌悪感を覚えた人だってかなりの数だろう。


でも彼らはすごく示唆的だったのだ。我々は単純な思考に陥っている。知的な思考を交える事なく、どんどん単純化していく世界観のなかにいる。


文学は、もっとも複雑で、多元的な世界を思考する手段としての存在でなくてはならない。すべてが情報化されて、すなわち単純な数字に還元されて、優劣善悪の判断をきわめて合理的に処理するような現在において、その重要性はすごく大きくなくてはいけないのだ。にもかかわらず、文学が単純化した姿を端的に、それも現象化したdeep loveを見てしまった今、僕は何となく暗澹とした気分なのである。