ミース、コルビュジェなしの近代建築

市川智子さんのコルビュジエさんに恋をして研究日記
http://d.hatena.ne.jp/letomoko/20040402

朱雀正道さんのコンビニ研グルメ班日記
http://d.hatena.ne.jp/sujaku/20040328
http://d.hatena.ne.jp/sujaku/20040329
http://d.hatena.ne.jp/sujaku/20040401

あたりのミース、コルビュジェ抜きの近代建築論云々。
なんとなくしっくり来ないので言及してみる。
この趣旨を明確化するある種のガイドライン的目的です。批評批判中傷の意図はありませんことは最初に断っておきます。

空間とはたしかに言語化しにくい対象だけれど、もっとその空間に即した言語化の方法はいくらもあるのではないか。


言語化とは何をさすんだろう。空間そのものを記述する事が無意味とは言いませんけれど、それは文学とかの領域じゃないかなあと思う。あくまで馬鹿な学生が思う個人的なことですが。その先に何があるのかが全く持って意味不明なのである。

歴史観を<コルビュジエ、ミース、コールハース>と要約し、それを「最も正当で理解できる近代以降の建築史」と、なんの説明もなく示すのだけれど、おれはといえば、そんなことを言われてもなんのことやら、さっぱりわからないし、それはいったい誰の歴史なんだ、と問いつめたくなる。


そんなことを言い出したらあの時代を近代建築でひとくくりにしてしまう事にだって無理が出てくる。つまり現実は複雑怪奇なのである。あの時代に建築家がみんなそろって、いわゆるインターナショナルスタイル(いちおうこういう表現にしとくけど。分かりやすいから)を作ってた訳じゃない。そこらへんは調べればすぐ分かる。ある時代を何かで代表させるなんて事は厳密に言えばできないのである。歴史を語るという事は、考えうる最もわかりやすい形に軸を持ってくるところから始まるのである。ちなみにコールハースに帰着させる認識自体とくに特種ではない。そんなのは強引な言い方をすれば好みにすぎない。現代に軸を引くときの常套手段のひとつでしょう。

モダニズムとひとことで呼ばれる動きにも、いわばマクドナルド的な側面と、3ツ星レストラン的な側面がある。そしてコルビュジエは、喩えていえば、前衛的な創作メニューをつくったスーパー・シェフであると同時に、他方で(かれの意図はどうあれ)マクドナルドのような動きをも促進してしまった。おそらく晩年のコルビュジエの孤独は、その矛盾にあるのでは、と、モンガイカンながらsujaku は、推察しています。


モダニズムをどういう風に捉えているのかが不明瞭だけれど、モダニズムと晩年のコルビュジェを対応させるのはやや不適切な気がする。そもそもモダニズムの、俗にいう白い箱のあれが究極的に目指していた、その根本にはプロトタイプをつくるってことだったわけだから。後に名付けられたインターナショナルスタイルというスタイル。これはつまりたてる場所に関係なく、普遍的な住宅の解をモダニズムが思考していたからこそのものだ。住宅に重点が置かれたって事もというのもポイントなんだけどね。にもかかわらず本人はほとんど自身では言わなかったけれどコルビュジェはその設計の原型に地中海の建物への憧憬が存在している。後期に顕在化した土着的な造形はそれを改めて認識したからである。あとは白い箱の限界。そこらへんの矛盾。でもここらへんはきちんと勉強してないから、なんとも言えないんですが。歴史の誤認とかも含んでいると思いますし。

いや、そもそもここでかれは言説-理念-建築観を問題にしているのか、それとも実際の空間そのものを問題にしているのだろうか? それらをともに問題にしているようにも読めるのだが、しかし視点や目的が不問に付されているため(?)、どちらの議論としても、じゅうぶんな展開ができないのではないだろうか


軽いメモ程度のものにそこまで求めるのは酷だろう。あれはきちんとした論文でさえないんだから。




つまり何らかの形でものを作るということを指向したときに、ミースコル無しの近代建築に興味を持つとしても不思議ではない。それだけ現在建築を作るというときにその根拠を失っているんだと思う。朱雀さんや市川さんはこういう視点からではなくて、どちらかといえば歴史や文学の視点から見ている訳で、批判が生まれたのもそこらへんの差ではないかなあとふと思った。


どっちにせよ論理的な文章構成、議論の進め方をこれらの文章自体が欠いているのでなんとなく見ていて、どちらにも御三方のどれにも共感しづらいなあ。