雑感

「今の建築を志す若い人には功名心しかない」


こういうのは磯崎新をはじめ色々なところで色々なひとが言及している。じゃああなたがたはなんなんだと、すごく問い返したくなるんだけれども、そこらへんは実際のところ僕らにはわからない問題です。まあそうなんだろうなーと自分含め周囲を見ると思うことではあります。(でもこれって設計製図っていう授業の性質上しょうがないような。一握りの優秀者だけを毎回選別して講評する。ここでエリートと非エリートの線引きをしちゃうわけで)


ただやっぱり表層のみに目が奪われたポストモダンを転機に、建築の社会性や言語そのものが無効化されてしまったように僕は考えていて、そういう時代の申し子たる僕らに建築と社会を結びつけて考えるには、あまりに考えるということに僕らは慣れていないし、社会も複雑化しすぎている。


六本木ヒルズ回転ドアの事故では、当然のように批判的な言及が多くて、その矛先がデザイナー(建築家)に向けられるように思った。なんとなく感覚的に、だけれど。どういうわけだか建築そのものの存在と建築家はいまだに強く結びつけられて人々の中にあるのだなあと、不思議な気がした。高層ビル、その根本に横たわる【経済】を前にしたとき建築家なんて本当に歯が立たない。こんなことを確か新建築の月評で読んだんだけど、にもかかわらず象徴的な、それもいまいち責任の所在の曖昧な、独りよがり芸術家的な建築家の存在は根強い。


今の時代にあんな巨大な資本の固まりみたいなものを建ててしまう事自体が時流に逆らっているとしか思えないけど(べつに時流に乗るのが良いって訳じゃないけどね)、強大な資本力でもってしてアーティスト(芸術家、デザイナーなど)を招いたり、昼のワイドショーで有名なお店を紹介したり、映画の先行上映会をやったりっていうことで、いくらでも「なんとなーく」カモフラージュできてしまっていたってことに早く気づくべき。大阪万博が前衛を解体したと言うなら、六本木ヒルズは文化を解体してしまったといえないだろうか。


現在という時代は、権力が非常に曖昧に狡猾に隠されている時代なんだろうなあ。