石田衣良の少年計数機を読む。池袋ウエストゲートパークの2作目。


この小説の中で、マコトが老人ホームを訪ねるシーンが印象的。
彼は老人ホームを小学校と似ていると感じる。居心地の良さと同時に
管理するものとされるものが明確に分かれた場所だ、と。
ロビーに張られた地域に開かれた老人ホームと書かれた標語とは裏腹に
そこには老人しかいないし、そもそもマコトが老人ホームを訪ねたのは
それが初めてだった。その場所のむせかえるような空気に対して違和感
嫌悪感のようなものさえおそらく感じている。


どこにでもあるようなコンクリートの建物、そういう匿名性は
東京においてはまさに日常的で人間は平等なのだということを
主張しうるのかもしれないけれど、一方でそれは凄く差別的で空虚なのかもしれない。
スーパーフラットな時代における色々な矛盾が集約されている。


自分がこの間の設計課題でやりたかった事はまさにこういうことだと思う。
管理するものと管理されるもの。そういう境界を無くしたかったし
そもそも老人ホームのプランを見て感じた嫌悪感こそそれだった。


それにしても小説家の感受性は凄い。
中途半端な建築家なんて足下にも及ばないんだろう。
綿矢りさにせよ大崎善生にせよ。些細な空間を自分の感性で絶妙に捉えている。
いま、専門外の人間から見れば下らない空間論や作家論など全く意味をなさない。
もっとリアルな等身大の建築論を書かないといけないんじゃないか。
建築は実学で、全ての人が日常的にかかわり合うものであるにもかかわらず
建築の人たちは未だに狭い世界で生きている人が多い。
ポストモダンを経て、結局ほとんど何も変わっていないんだよね。


ファッションになってしまったってことは消費される対象になってしまうということ。
それも施主以外の全ての人々に。近代建築の歴史なんて
たかだか100年程度だし、それほど革新性に富んだ世界でもないのに
流行の対象になってしまった今、これからどうなるのかが不安。
もっとファッショナブルにもっと大衆よりに、おそらくこれからの建築はシフトしていく。
そのとき、専門家としてかつ大衆的に、建築の在り方を模索するべきなんだと。


あとNHK新撰組。今日の「友の死」は凄い泣けた。ここ数回の山南敬助のストーリーにおいては
構成がすばらしかった。ひさしぶりにTVで泣いた。