どちらかといえば人間関係ってひどい出来事があったからとかじゃなくて
ちいさなすれ違いの積み重ねから、壊れていくことの方が多いんじゃないか。
そんなことを考える今日この頃。でもいうまでもなく、それってどうしようもないことなんだろう。
べつに偽善ぶるつもりはなくて、自分もそうなんだけれども。


G5の不安定な原因がやっとわかった。つまり電源はシングルでとってこないとだめなのね。
電源タップを外してみたらしっかりなおった。うー。
とはいえデータの移行とかアップデート、ソフトウェアのインストールで
相当時間とられた。

ノートが欲しい。なにかと不便だ。


大きさ的にはPowerbookG4の12インチなんだけれども
CADとか使うには解像度が。じゃあ15インチが妥当な線かなあと思ったりもするけれど
グラフィックカードが128MのBTOには下位モデルは対応していない。
OS10.4を視野に入れるとどうしてもビデオメモリーくらいはがんばってほしい。
アカデミックプライスで購入すると20万くらいで別途1Gメモリー購入で
23〜24万くらいだろうか。


デスクトップのサブ扱いなのでG4、G5には別段こだわりはないし
たぶんPowerbookG4の最終形だし、値段も装備も極めて妥当な線。


あと新機能のトラックパッドスクロールは思いのほか便利。
VAIO触ったときに似たような機能があったけれど、両手操作の方が
格段に使いやすい。


でもお金ないなあ。

PORTFOLIO


APARTMENT HOUSE IN KAGURAZAKA
可動式の開口部によって、雑多な街に対しての多様性を生み出すことを意図した。
固定化した建築の姿ではなく、その先にある汚れた姿。
開口部と、内部の間にあるベランダのようなスペースは
それを助ける、路地のような存在であってほしいと思っていた。




HYPER SCHOOL
ストライプ上のゾーンニングを、中央を通る道に対し垂直に交わらせる。
さらに透明、不透明の視覚的操作によって老人ホームと小学校という
全く異なる機能を併せ持つ施設の提案。ひとつの理想解、理想像ではなく
空間の隙間に生じる、様々な種類の場所を生み出すことを意図した。それは
従来の小学校や老人ホームのもつ、支配性へのアンチテーゼである。





SMALL THEATER IN WASEDA
既存の在来軸組造の住宅を小劇場へとリノベーションする計画。
構造体だけを残し、新たな表層としての仕上げで包み込む。
全く新しいものの美しさでもなく、既存のままの投げやりさでもない。
その中間地点を模索した。自分なり新しい視座を投げかけることが
都市におけるリノベーションという行為の一つの意義である。
そしてそこに必要なのは、ある種の美しさだ。




SMALL HOUSE AS AN INDUSTRIAL PRODUCT
法規的に最大の、容積を得ること。既存の街並みの醜さの一つは
そうした内向性のみによって、おのおのの建築物が作られていることである。
可能な限り大きな3つの庭を用意した。旗竿地のフレームと、その庭に
かたどられるような輪郭。庭が、3つ目の庭となるような内と外との関係。
都市の密度の緩和。そういうことを考えた。そこに私的な表現は必要ない。



勉強をしなくてはならないけれども、どうにもこうにも。
本を読まないといけないな。もっとたくさん。
そんなこととは無関係に知り合いに影響されて、白石一文「すぐそばの彼方」
伊坂幸太郎「オーデュポンの祈り」を読んでみる。小説ばっかり、、、。
「すぐそばの彼方」は「一瞬の光」の延長上にある作品。
このひとの作品の現代性は、ちまたにあふれるサクセスストーリーに対する
強烈なアンチテーゼであることなんだろう。でも同時にあくまで自らの価値観が
日本人であることをおそらく意図的に否定しないが故に、ある種の枠から脱することも
また出来ていない。この人の小説が非常に古風に感じる理由の一つだ。
「オーデュポンの祈り」は、フーンって感じの本で、文章力や構築力は
ずば抜けたものを感じるけれども、深みが無い。もう読むことは無いだろうなと言う小説だった。

高砂正弘さんは2年の住宅課題のときに
一度大学に来てくれた事があったのだけれど
結構最近いいかなと思う。このひとはどちらかといえば
モダニズムなかんじよりは、屋根勾配のちょっと鈍臭いくらいのほうが
力が発揮できると思っていて、そのなかで静かな建築の質感を
表現できるんだなあと、GA HOUSESを本屋で立ち読みしたときに感じた。


第3課題の作品。ぼーっと見てて考えた事。
いろいろ意匠面で、どうしようもないところはあるけれども
やっぱりダサイ構造がもろ見え、それでいて天井高は普通で
さらに切妻の普通の家型で、普段見えない屋根裏が見えていて、
そこらへんのちょっとずれた感じはなかなかいいと思っている。
本来の天井ラインが梁で見えているのに、さらに向こう側に薄暗い空間が
広がっているという感じ。壁が無くてユニバーサルスペースっぽいけれど。
柱がポツポツと立っていて、向こうまで視線が抜けている。逆にマッスとしての
一階部分の存在感だとかがいいんじゃないかなあ。
この作品にしろ設計演習で評価の高かった
平面を細分化して道を通した作品にしろ普通さの中に潜む
奇妙なスケール感覚っていうのは結構おもしろいんじゃないかなあと。
ここらへんがもう少し意識的かつ、効果的にプレゼンテーションできるようになると
面白いのかもしれない。まあ派手さは無いけれどね。


自分の3年間を振り返っても、派手にやる事だとか
流行には拒否反応があったようなきがする。
小さくて、ささやかなほうが好きで、なのに一番巨大な小学校が
評価されてしまったというのは、どうしてなんだろー。
まえに赤坂喜顕さんが、結局大学時代の興味は仕事するようになってからも
変わる事は無いというようなことを仰っていたけれど。
だとすれば、絶対にトレンディーに生きる事は出来そうにないなあ。

ほぼ2年ぶりに先輩の手伝いというものをやってみる。3日間
卒業設計の図面をベクターイラレでひたすら書きまくってた。
寝るか手伝ってるかっていう、ひどい生活だった。


今日は講評会はさぼって、一日中遊びほうける。
ゆっくりお昼を食べて、映画を見て、そのあと夕飯。
本当に久しぶりに、肩の力を抜いてのんびりできた気がする。


今回の課題、講評会には出なかったから、適当な解釈なんだけれど
家具と建築というテーマがあると可動式にいくか、イームズ自邸に
いくかのどっちかなんじゃないかなと思っていて。でも家具を建築化したりだとか
可動式家具による多様性だとかは、結局建築の空間を否定している事になっていると思う。
というより好きじゃない。建築ってやっぱり床は床だし、天井は天井だし、壁は壁。
イームズ的解釈は、極端な形で西沢立衛がやっていたけど、
いろいろなところで言及されているように、あれは使う人を選びすぎる。
まあ難しい所だね。


極めてグラフィカルな平面だとかって、遊びだ。
30代くらいの若手に見られる傾向なんだけれど。
イデオロギーとか主張とか、意思だとか。そういうのを否定して
面白ければ良いじゃんって言う。極端な遊び思考。
でもこれは目新しさを好む、それ以前の世代の責任じゃないかなあ。